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展覧会の感想、適応障害で休職中の日々の日誌など。気持ちの揺らぎを見つめて自分のハンドリング方法を模索しています。

画家とコレクターの眼差しを辿る 松方コレクション展 感想

季節は一気に飛んで7月。
7月かそうか……という感じですが。
6月は仕事の繁忙期に加え、誕生日を迎えたこともありめちゃくちゃ情緒が不安定だったのと、友人の誘いで突如ヤクルトにどハマりしたのとで美術館に行ってなかったんですよね。

しかしそれはそれ、これはこれということで、7月は久々のハシゴ美術館。
松方コレクション展@国立西洋美術館とみんなのレオ・レオニ展@損保ジャパン日本興亜美術館に行ってきました。

公式は下記より。
また今回の作品画像は、全て国立西洋美術館 所蔵作品から引用しています。

素描の面白さに気づく

実のところ不勉強で、西洋美術館まで出掛けても常設展まで観ることが少なかったのですが、今回の松方コレクション展、かなりボリューム感のある展覧会でした。
なので、いままでかなりもったいないことしてたなあと思いましたね……

ビュールレ・コレクション展以来、シニャックの色使いが好きだなと思っていたのですが、松方コレクションにも素敵な作品がたくさんあると知り、だいぶ盲点でした。


ポール・シニャック《グロワ》20世期初頭、松方コレクション

紙に鉛筆と水彩、グアッシュで描かれており、分類上は素描になります。
20cm×27cmと実物はかなり小さいのですが、帆のオレンジ色が目を惹きます。
理論によって構築された幻想的な色合いの点描ともまた違う、素早く瑞々しい筆致からは、見知らぬ土地で新しい風景に出会った時の驚きや心躍る様が感じられます。


ポール・セザンヌ《水差しとスープ容れ》1888-90年、松方コレクション

素描繋がりで言うとセザンヌの素描群も良かったですね。
こちらも紙に鉛筆と水彩で描かれた作品です。
画面上の密度はものすごく高いものの、水彩の透明感によって、画面からの圧力のバランスが保たれているように感じました。
物体そのものをそれらしく描くのではなく、水差しやスープ容器、そして果物達が放つ物体としての固有の質量やエネルギーのようなものを、水彩と筆致によって描き出しているようにも見えます。

これまで、素描は画家の試行錯誤の証である、ということは頭で分かってはいたのですが、実感を伴って観ると全然面白さが違いますね!

私自身の絵心は皆無なためいままで「試行錯誤する経験」が乏しく、素描の楽しさがいまいちピンと来ていなかったのですが、私自身が商用に耐えうる写真を撮ることになってからというもの、こうした素描を観るのが俄然面白くなりました。

限られた画面をどうやって構成していくかという眼差しが自分の中に出来たことに加え、ほぼ同じモティーフで継続的に写真を撮るようになったために、自分の手で試行錯誤をするようになったという経験が、私の物の見方を変えたのだと思います。

私が手を動かして何度も商品の位置を並べ直したり日当たりに四苦八苦したりしたのと同じように、セザンヌがりんごやオレンジを並べて見え方や描き方、配置を試行錯誤したのだと思うと「愛おしい」という気持ちが湧いてきます。
人間としての生活や息遣い、そして時間の手触りのようなものがふっと作品の奥から迫ってくるような……画家も人間である、というのがぐっと実感できて、ああいいな、と思ったのでした。

コレクターの眼差し

文字にすると当たり前のことかもですけど、改めて考えると、何世紀も前の人間が描いた絵が残っていて今も観ることができるってすごいことですよね。

後世の人間がこうした経験ができるのもコレクターの意志あってこそなわけで、先にリンクを貼ったビュールレ・コレクションや、昨年のフィリップス・コレクション展@三菱一号館美術館など、展覧会でも時折コレクターの名を冠した「〇〇コレクション展」が開かれています。

フィリップス・コレクション展は、ダンカン・フィリップス氏が残した言葉から、それぞれの作品や画家への眼差しを読み解くことができる構成になっててとても面白かった記憶があります。

今回の松方コレクションは言葉のほか、松方氏の足跡をベースに、購入時に使われた実際の書類なども展示されていてこれも面白かったですね。

時代背景、そして松方氏の来歴上、戦争は切っても切り離せないのですが、その部分に関しても上手く作品を使っていたという印象です。

第2章「第一次世界大戦」では、絵画のメディア性と共に、戦争がもたらした富がコレクション形成に不可欠であったこと、そしてそのコレクションの中に「メディア化した絵画」が含まれている事実を提示しています。


リュシアン・シモン《ブルターニュの墓地の女たち》1918年頃、松方コレクション

いまのところwebで公開されている国立西洋美術館の所蔵作品検索では見つけられなかったのですが、エリック・ケニントン《陸兵の教練:毒ガス・マスク(『大戦 英国 1917 Eric Kennington の努力と理想』より)》など、はっきりとメディア寄りの作品も収蔵・展示してあり、当時のヨーロッパの空気を伺うことができます。

これらの作品を観て、ビュールレ・コレクションのビュールレ氏も武器商人でしたし、人間、全て清廉であるということはなかなか難しい……と、複雑な気持ちになりました。
しかしながら、この章を出してくることにより、絵画のメディア性、そして「ただ目に心地よいものを集めただけではない」という松方氏のコレクターとしての眼差しと共に、人間としてのアンビバレントな面がきっちり示されていたと思います。
これは企画展だからこそですね。

ゴッホ《ばら》とクリムト《丘の見える庭の風景》


フィンセント・ファン・ゴッホ《ばら》1889年、松方コレクション

どのタイミングだったか失念してしまったのですが、この作品は1度観ています。
今回こちらを観てパッと出てきたのが、東京都美術館クリムト展で観た《丘の見える庭の風景》でした。
似てませんか……?
イメージソースとして繋がってたら面白いなあと思うのですが、どうなんでしょうね。
こういうのをきっちり調べられたらいいのですが、なかなかまとまった時間が取れずもどかしい限りです。

あくまでこの2作品を見比べた限りの話ではありますが、ゴッホの意図が「草木や花々から感じられる生きている様をカンヴァスに残したい」だとすると、クリムトの方は様式化された分、装飾性が高まっているように感じました。
クリムトは、ゴッホの物の感じ方よりも、技法や着眼点(日本)、構図や色彩感覚の方に関心を持ち、影響を受けたのかなという印象です。

こうして比較すると、ゴッホの筆致がもたらす生命力の強さに改めて驚かされます。
物質そのものの奥の生命力がゴッホにはきっと見えていて、それが彼の胸を強く打ち続けていたのでしょうね。

今回のお土産

久しぶりに今回のお土産です。
なるべく嵩張るものは買わないと決意し、最近はポストカードばかり買ってたのですが、これは我慢できませんでした。

ゴッホ《ばら》を模したヘアゴム、ときめきが止まりません。
好きすぎて予備も欲しいくらいです。
企画展ではなく、常設の方で売ってるのもポイントが高いです。