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展覧会の感想、適応障害で休職中の日々の日誌など。気持ちの揺らぎを見つめて自分のハンドリング方法を模索しています。

デュシャン展&快慶・定慶のみほとけ展

友人から招待券をもらったので、最終日に駆け込んできました。

ハロウィン色ですね。

マルセル・デュシャンと日本の美術展

東京国立博物館 - 展示 日本の考古・特別展(平成館) 東京国立博物館・フィラデルフィア美術館交流企画特別展「マルセル・デュシャンと日本美術」

何かと賛否両論の展示だと聞いていたので正直かなり身構えて行きました。
バイアスかかったまま観るのはあんまり良くないなと思いましたけど、いろいろな記事を読んでしまったので、そこは仕方ないと割り切っています。

この批評は分かりやすかったですね。
なぜ《泉》ばかりが注目されるのか? 平芳幸浩評「マルセル・デュシャンと日本美術」展|MAGAZINE | 美術手帖
「そもそもキュレーションの際の意識から問題がある」という点から論が始まります。
《泉》で集客することと《泉》を中心に貸し出されたものをキュレーションすることは別である、という点を指摘・批判しています。

(前略) 少なくともフィラデルフィア美術館の「パッケージ」の意図を明確に汲み取って、どう視覚化すべきか考えてほしかったと思う。そうすれば、デュシャン=《泉》=「何でもありの現代美術の起源」という、現今の美術の理解にもまったく役に立たないクリシェを再生産することがどれほど無意味かと思い至ったであろうし、あの第2部「デュシャンの向こうに日本がみえる。」ももっと違ったものになったであろう。

まさに私自身がデュシャン=《泉》の意識でいたので、この辺りはかなりこの批評を読んでかなり反省しました。
他の作品はそこまで知らないけれど《泉》は観ておきたいよな、という気持ちは大いにありました。

もっと、デュシャン大喜利なんてふざけ過ぎ、みたいな感じで苛烈に批判している記事も読んだような気がするのですが、見つけられなかったのでまた見つけたら追記します。

実際に足を運んでみて思ったこと

まずは下記の作品、《1941年のボックス》とその解説から。


こういった、自分の作品や芸術に対するものをきっちり決まった形で保存していた辺りからデュシャンの人となりが何となく感じられますね。
几帳面かつマメ、そして理論に裏打ちされていることが何よりも拠り所になる人なのだろうか……などと想像しました。

他の方も感想で指摘されている方がいましたが、もう少し作品が実際に機能しているところを観たい作品が多かったのは事実ですね。
全くなかったわけではないのですが、ちょっともったいないなと思うところもありました。
個人的に観たかったのは《ドンペリニヨンの箱》。


一部分で恐縮です。
そうは言っても最終日なのか、結構な混雑でなかなか綺麗な写真が撮れなかったんですよね。

「左右異なるフィルムを覗き込んだ時の微妙な視覚のブレを感じるもの」が、ドンペリニヨンの箱の中に入っています。

自分の作品のミニチュア集《マルセル・デュシャンあるいはローズ・セラヴィの、または、による(トランクの中の箱)》然り、デュシャンは多分箱フェチというかコレクター気質があったんですかね。

ともあれこの「微妙な視覚」、せっかくならば観たかったです。
想像させる、考えさせるものだ、というのがデュシャン的意図という判断なのかもしれないですけど、滅多にない巡回展なのでチャレンジして欲しかったですね。

で、問題の《泉》。
この解説はどうなんですかね?という憤りの1枚。

これは「芸術とは目に映るかたちの美しさや心地良さのあるものである」という大雑把かつ間違った認識を無意識に鑑賞者に植えつけているとしか思えなかったです。

まず、芸術の世界ってどこだよ?問題。
この文章では想定している芸術の範囲は極端に狭すぎるように感じます。
せいぜい絵画、彫刻は入っているかどうか怪しい。
いわゆる造形芸術(≒美術)を包括してはいないような気がします。

西洋における美術という枠組みは確かに「美しく目に心地良いもの」に重きを置いていた時代が長かったとは思います。
美しさや心地良さの定義のひとつとして造形芸術が数学と結びつき、比率が整っていることが視覚の心地よさ、調和に繋がると考えられていた時代もありました。

しかしながら、デュシャン以前にもただ美しいだけではない作例はいっくらでも出てきますよね。

印象派以前に高尚、模範とされていたアカデミック美術が尊んだ神話・宗教画の中にも、戦争や聖人の死の瞬間を描いたような残酷な描写によるスペクタクル、神話やイコノロジーを隠れ蓑にしたエロスの追求など「目に心地いいだけのもの」ばかりでない作例が数多くあり、挙げていけばキリがないと思うのです。
また、戦争画といういわゆるディザスターを扱ったものもありますね。これも「目に心地いい」とは言えないでしょう。

なので、「彼は芸術の世界に目に映るかたちの美しさや心地よさのあるもの以外の価値を生み出してしまった」ということをデュシャンの独自性として提示するのは、かなり無理があったのではないでしょうか。

決して目に心地良く美しいだけではない作例はありすぎて何を引っ張るか迷いましたが、ひとまず聖書と残酷描写の例としてクラーナハを挙げます。


ルーカス・クラーナハサロメ》1535年頃、ブダペスト国立西洋美術館

洗礼者ヨハネの首を求めたヘロディアの娘サロメは悪女、femme fataleの系譜で多くの作例があります。
女性の美しさと残虐行為の取り合わせですね。
たまたま気が向いたのでクラーナハを引用しましたが、ティツィアーノやカラヴァッジォにも作例があります。
描き継がれる背景にあるのは怖いもの見たさや後ろ暗い喜び、はたまた画家の技量を示すためでしょうか。

端的に言って残酷描写だと思いますし、鑑賞者が不快感を持ち得る可能性も大いにあると思います。
なので、西洋美術(絵画)はデュシャンによって概念を破壊されたという図式の提示はあまりにも乱暴すぎると私は思います。
「生み出してしまった」というのも、いったいどこ目線なんだろう?という謎です。

ちなみに、芸術の範疇を「第七芸術」である映画まで広げたらディザスタームービーやらホラーやらもあるじゃないですか?
それを踏まえると、やはり芸術の括りがざっくり過ぎと言わざるを得ないです。
第七芸術の前の六つは?という辺りは下記を参考にしてください。
第七芸術(だいななげいじゅつ)とは - コトバンク

そしてちょっとここは自信がないですけど、デュシャンレディメイドが起こした論争は「別人が作ったものをただ選んだだけのものが芸術と言えるのか」ということであり、「美しくないものを芸術と言えるのか」というものではないような気がするんですよね…

で、この問題のある解説が《泉》とセットであることがまずデュシャン=《泉》=スキャンダラスの図式をさらに強めてしまっているわけです。

レディメイドの最初の作品に添えられているならまだ100歩譲ってまだ分からなくもないですが、よりによって《泉》なのはいただけないと思います。

とは言え《泉》に添えたくなる気持ちもなんとなく分かります。
便器が芸術、というのはレディメイドへの嫌悪感に加えて生理的な嫌悪感があり、歴史的文脈でも騒動があったために、ある意味伝説化してしまった部分があるのだと思います。

しかし展示を通して事実を伝えることと、伝説の"通説化"、もっと言えば"陳腐化"をアシストすることだけに留まることは似て非なるものなのではないだろうかということは感じました。

第二部の日本美術とデュシャンの対比についても、批判が凄いことになっていましたね。
私は日本美術に関しては周りに引かれるレベルの無知加減なのですが、それでもさすがにそりゃこじつけなのでは?という点が散見されました。

この解説も憤りで撮影したものです。

別に日本の画家やだけ注文主がいる訳じゃないですよね。

西洋には宮廷画家としてパトロンありきの画家がたくさんいるような?注文に応じて肖像画や室内の装飾を描いてませんか?教会の装飾もしてますよね?
そしてそもそも日本も西洋も工房や徒弟制で作品を作っていたケースはかなりあると思いますし、同じ公園内でルーベンス展やってますよ?と突っ込みたくなりました。

同じ主題の模倣(コピー)もなんか履き違えていると思いました。
宮廷画家はたくさんいるので、パトロンが気に入ったものをまた注文もしくは献呈っていうケースはデュシャン以前にも当然あると思います。
そして西洋において聖書や神話が繰り返しイメージソースになるのと同じように日本にも神話、伝承や物語がイメージソースになった作品が存在するじゃないですか…
例えば《洛中洛外図屏風》という決まった様式があり時代を変遷して表現や技法が変わるのと同じように、《サロメ》という様式が時代と共に変化していく、そこにデュシャンの試みは正直何の関係もないと思います。

さらに突っ込むと、版画や印刷よるコピーが作品を広範に知らしめることとなった点は丸無視なのですか?というのが非常に気になりました。

デュシャンデュシャンでちゃんと評価や魅力を出しましょう。
どうしてもキュレーション面で《泉》を中心にしたかったのなら、なぜそこに至ったのかをもう少ししっかり主張してもらいたかったです。
私の読み取り力がアレだったのかもしれませんが、とにかく突っ込みどころが多くてちょっといろいろ考えちゃいました。

あ、あと個人的にですが、デュシャン=スキャンダラス、だから今回の賛否両論もOK!っていうのも違和感ありですし逃げだと思います。
デュシャンの"伝説"におんぶに抱っこ過ぎです。

快慶・定慶のみほとけ展

東京国立博物館 - 展示 日本の考古・特別展(平成館) 特別展「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」

相変わらず仏像(東洋美術の範疇ですかね?)も詳しくないのですが、今年は割と積極的に観ていますね。
あまり知識面で成長がないので、何かいい本がないかなーと思ってはいます。

今回唯一撮影可だった重要文化財六観音菩薩像》より《聖観音菩薩立像》。

この六観音菩薩像、光背を取り外しているのでお背中が観られたんですね。
後期展示のみの試みだったようで、知らずに行きましたが結果的にラッキーでした。
ミケランジェロと理想の身体展でも感じましたが、馴染みのないジャンルこそ360°ぐるぐる観られた方が気になるポイントを見つけられるので面白いです。

光背は光背で精巧な作りなので、そちらを個別でじっくり見るのもまた楽しかったですね。

あと興味深かったのが重要文化財の《傅大士坐像および二童子立像》。


公式から引用しています。
いかにも中国な顔立ちだなーと思っていたらやはり中国の方でした。傅大士という人物の像です。

この方はお経の全てがまとめられた大蔵経が回転式の書架に納められている「輪蔵」の起源となったと言われています。
この輪蔵を回すとお経を全て読経したことと同じご利益が得られるそうです。

なんかその話、聞いたことあるしなんならやったことあるような?と思って帰ってから調べたのですが、どうやら鎌倉の長谷寺や長野の善光寺にあるようですね。
去年長谷寺で回してました。

輪蔵の前にはこの傅大士と二童子像がセットになっているそうなのですが、長谷寺はちょっと記憶が曖昧です…また行く機会があれば良く観察しようと思います。

あと書いておきたいこととしては、作品リストが親切仕様だったので仏像ビギナーには大変ありがたかったことですね。

お役目と顔が見比べられるので助かりました。

相変わらず馴染みのないジャンルは記述が薄くて自分でげんなりします。
来年はもう少し仏像や日本美術の基本的な流れを頭に入れたいです。

順番が前後しましたが11月に行ってきたルオー展の感想、そしてこちらも最終日前日に駆け込んだピエール・ボナール展の感想も年内には頑張って書こうと思います。
あとはなんとか年内にムンク展も行きたいので平日に休めるようスケジュールを組めたらいいなと思っています。
混んでると聞くとちょっと気後れしてしまいますよね…