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展覧会の感想、適応障害で休職中の日々の日誌など。気持ちの揺らぎを見つめて自分のハンドリング方法を模索しています。

山口晃『ヘンな日本美術史』感想とこれまでの展覧会いろいろ

今回は、先日日本美術デビューに付き合ってもらった友人が貸してくれた山口晃『ヘンな日本美術史』の感想です。

展覧会の感想はこちら。

今回の本の感想は、読みながら思い当たった作品を出来るだけ図版や記事を出しながら書いてみたいと思います。
(章立て順ではなく、気になったキーワードを行き来する形で書きます)

ヘンな日本美術史

ヘンな日本美術史

白描画と印象派の共通点と、油絵具の特徴

紙と墨のモノクロと、色彩に溢れた油彩の印象派の作品は一見正反対のように見えて、楽しみ方として「離れて観た時にバラバラのものが溶け合って一つの空間が現れる」というイリュージョンが共通していると筆者は述べています。

また、白描画も印象派の作品も、紙と墨、キャンバスと油絵具という物質性を想像させるという点も似ていると説明しています。

別の章になりますが、筆者が油絵具は物質としての透明性を持つと評しているところに大いに納得しました。


ピェール=オーギュスト・ルノワール《夏の帽子》1893年、ビュールレ・コレクション
全作品紹介『至上の印象派展 ビュールレ・コレクション』作品画像 | IROIROから引用

ビュールレ・コレクション展でこの作品を観た時に感じたのが油絵具は光を反射してきらめくという性質があるということだったんですね。
特に右の女性の帽子の厚塗り部分が、銀糸を織り込んでいるんじゃないかっていうくらい、光を集めてきらめきを放っていてとても美しかったんですよ。

「絵が描ける人」の物の見方を学べる

帯のキャッチコピーにあるように、筆者は「平成の絵師」です。
絵を描くことを生業にしている視点からの意見が多いので、絵心ない芸人が笑えないレベルの絵心がない私には新しい視点ばかりです。

(中略)要は、絵画と云うのは記録写真ではない訳ですから、写真的な画像上での正確さよりも、見る人の心に何がしかの真実が像を結ぶようにする事の方が大切なのではないでしょうか。

これは絵を描く人、油彩と日本美術を巧みに行き来する筆者だからこそ説得力のある言葉だと思いました。
ちょっと私の物の見方も西洋美術寄りに偏っていたな、とハッとしましたね。
別に戻すとか悪いとかは思わないですけど、それがザ・ワンだと思い込まないように気をつけよう、とは思いましたね…

鳥獣戯画》を扱う冒頭の章で出てきた現在からある作品を遡るのではなく、ある作品から繋がる可能性のあったifを念頭に置いておくという「こっち向きの視点」を獲得した方がいいという趣旨の一節は、これから念頭に置いておこうと思いました。

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ちなみに、展覧会にも一緒に行ってもらってこの本を貸してくれた友人も、デザインに関心があり、絵が描ける側の人です。
展覧会の時に作品のどこを観ているかを聞いてみたら、仏像も他の作品も人体や動物の構造を考えながら観ているとのこと。
だいぶ私としては衝撃的でした。
絵心、つまり観察力と再現力がある人が羨ましいです。


普賢菩薩騎象像》平安時代(12世紀)、大倉集古館 ◉国宝
特別展『名作誕生-つながる日本美術』(東京国立博物館で開催)から引用

結構この作品の前でお互いの着眼点の違いがわかったんですよね。

友人:象に蹄などないのに彫っちゃってるのが面白い
私:象は古代インドの世界観と何か関係があるのかな
という具合です。
私は言われなければ蹄なんて気づかなかったでしょうね…エッシャー展の記事でも書きましたが、本当に画面や作品そのものを捉えることが苦手なんです。

そういう意味で、画面や物質そのものを観ることが不得手な自分が、そのものではなく意味を扱うイコノグラフィー(図像解釈学)にハマっていったというのは宜なるかなです。
一応自分の適性に合った方向に進んでいるとは思いますね。

小林古径批判が面白い


小林古径《芥子》1921年東京国立博物館


ゴッホ《蝶とけし》1889or1890年、ファン・ゴッホ美術館


上の記事で、私は日本的な眼差しについて、ゴッホと比較した時に古径は力が入っておらず自然に見え、ゴッホは力が入っているように見えると書きました。
しかし筆者は古径の作風を写生=デッサンと日本画の要素を融合した「大らかさもどき」と、同情しつつもやや批判的な言葉で綴っています。

観る視点が違うと全く違う景色が広がっているのですね。
結局、時代は違えど西洋と日本の双方が双方を取り込もうともがいていた、というところでしょうか…まだまだ知らないことだらけで面白いです。
もっといろんなことを知って横断的に物事を見られるようになったらきっと私は楽しいだろうなと思います。貪欲にいきたいですね。

やっぱりブリューゲル展に行けばよかった!

雪舟の章でまさかのブリューゲル親子の話が出てきたので、やっぱり行けばよかったよ!という気持ちになりました。
体調が最悪だったので仕方なかったんですけどね…

絵に宿る「何か」を筆者は「絵の深み」と表現しています。
その上で「絵の深み」とは画面の向こうに見た風景であり、脳髄の風景であり、画面のずっと先にある本質に届かせようという意識の持ち方で決まると述べています。

その例えとして出てきたのがブリューゲル親子の話です。
ブリューゲルは筆致は荒いけれども「深み」があり、それを真似た息子ヤン・ブリューゲルはあくまでも父の到達した点までしか到達できないと筆者は言います。
さらに筆致の荒さを「深みに早く到達したくて筆致が荒くなったのでは」と推察する辺りは、本当に「描いている人の体感」が込められていて興味深いです。
筆致はやはり印刷だとわかりにくいので、やっぱり生で観てみたかったですね。
そして筆致と深みという観点でいうと、あの特徴的な筆致のゴッホはギリギリまで深みに到達しようとし過ぎた人物なのでは…という私のゴッホ贔屓もねじ込んでおきます。

肝心の雪舟に関しては「祖となるにふさわしい引き出しの多い人物」「《天橋立》は下絵だとしたらピチピチの下絵」など、独特の表現が使われていて読んでいて面白かったですね。
先日の展覧会でももう少しじっくり観ればよかったです。
引き出しの多さはうっすら感じられたんですけど、ピチピチ感まで観る余裕はなかったです…

洛中洛外図屏風》あれこれと《東京スカイツリーの壁画(隅田川デジタル絵巻)》

日本史が絶望的に苦手で受験で世界史に逃げた上、尋常じゃないレベルで方向音痴な人間なので、いくら《洛中洛外図屏風》のシリーズがすごいものだと頭でわかっていても「わあ…細かい…」くらいの感想しか持てない人間です。

なんですけど、展覧会で色々と友人に見どころを解説してもらった中で気になったのが《洛中洛外図屏風 舟本木》は建物も正確だし地図としてもきっちりしていて、登場人物の格も書き分けられている、という部分です。

岩佐又兵衛洛中洛外図屏風》江戸時代(17世紀)、東京国立博物館 ◉国宝
特別展『名作誕生-つながる日本美術』(東京国立博物館で開催)から引用

彼女の説明を聞いて、私の頭にふっとひらめいたのが、スカイツリーの1Fにあるチームラボ《東京スカイツリーの壁画(隅田川デジタル絵巻)》2012年です。
詳細はこちらから。
東京スカイツリーの壁画(隅田川デジタル絵巻) / The TOKYO SKYTREE mural | teamLab / チームラボ

都市には主役はいない。一人ひとりの物語の集合が、都市を興味深い存在に形作っている。日本美術には、16世紀初頭から江戸時代に形成されたとされる『洛中洛外図』や『江戸図屏風』のように、中心がなく、フラットで、すべてにフォーカスがあたり、人々の物語まで含んだ非常に情報量が多い作品が残されている。

やはり洛中洛外図という概念の延長線上にある作品です。
チームラボって知らないで観ていましたけど、この作品好きなんですよね。動く部分もありますし、なんとなく観ていて楽しいんですよ。
動画もありましたので雰囲気がわかりやすいと思います。
The TOKYO SKYTREE mural / 東京スカイツリーの壁画(隅田川デジタル絵巻) - YouTube

ああ、こういう「観ていて楽しい」を当時の人々や現代の京都の地図が頭に入っている人は楽しめているんだろうな、とちょっと羨ましくなりましたね。

全体を通して

日本美術と西洋美術が交わってからの過程部分は、何度も読み返しているのですが、まだ自分の中で咀嚼しきれていないのでまたなにかの機会に書こうと思います。

なんとなくですが「日本美術史は遊びの中で自ら作り出した制約を乗り越える過程なのかも」という筆者の視点を踏まえると、西洋美術史は宗教やリベラル・アーツと結びついたことによって生まれた役割から抜け出そうともがく過程として見ることもできるのかなと思いました。

とにかく世界、視野が広がったことが楽しい本でした!貸してくれてありがとうです。自分でも買おう…そしてもっと日本美術も怖気付かずに実物を観に行きたいと思います。

とりあえず次はこれに行こうと思います。
東博と人気番組がタッグ「トーハク×びじゅチューン!なりきり日本美術館」がこの夏開催。インタラクティブな仕掛けも満載|美術手帖

びじゅチューン!は「モネの睡蓮ノート」と「オフィーリア、まだまだ」が好きです。
超・余談ですが「モネの睡蓮ノート」は恩田陸の『常野物語 光の帝国』の「歴史の時間」ぽさがあると思います。