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展覧会の感想、適応障害で休職中の日々の日誌など。気持ちの揺らぎを見つめて自分のハンドリング方法を模索しています。

適応障害で休職してます⑤「適応障害は甘え」なんかじゃない

今回は、過呼吸で救急車のお世話になった後の私が、適応障害を現在進行形でどのように受け止めているかという話。

そもそもの経緯。

前回はこちら。

適応障害は甘え」ではない

とりあえず言わせて欲しいことはひとつ。

適応障害は甘え」ではないことは、本当に、本当に、声を大にして言わせてください!

現状、自分の状態を知りたくて検索フォームに「適応障害」を入れるとすぐにサジェストで「甘え」が出てくるので、それだけで心が抉られますね。
実に辛いのでそうじゃないんだと発信したいです。

あくまで個人の感覚ですが、適応障害「状況に適応する段階で上手く心と身体を休ませられなかった結果」だと理解するようにしています。
心や身体がエラーを起こしていると自分が認めるまで、止まることができなかったんです。

私の中にもそのような「甘え」風潮を助長するマインドがあったことは否定しません。
頑張らなければ、仕事に行かなければとずっと思っていましたし、自分にも他人にもそれを要求していました。
他人を追い詰める側になるのはとても簡単なことでした。

ですが、実際に自分が適応障害と診断されるような状態になったことで、こういうことは誰にでもいつでも起こりうることだと心から思うようになりました。

「甘え」と思う自分とそれが辛いと思う自分のどちらの心の状態を経験した上で言います。
やっぱり誰にだって起こるかもしれないことを甘えだなんていう風潮は止めたいし止めてほしいと思っています。

休職中の私は「休まる」状態を探しています

最近の私は「自分にとって休むという実感を得る手段」とはなんだろう?と日々自分に問いかけ続けています。
というか、休職することになってからの色々なことを経て、やっとそういうことを考えられる余裕が取り戻せて来たという感じですね。

「休めている」という実感を得るために自分にフィットする方法を探すことは何も悪いことではないと思います。
休職はそのための時間です。

まあ、他人から「休んでいる」ことについてどう思われているかはやっぱり気になりますし、私はその日の心持ちや体調次第ではその気にかかりが特に辛い、ということもしょっちゅうあります。

最近、そのように「休む」ことに対して罪悪感が強く出てきてしまったときは、以前も書きましたが「自分の運命は自分で切り開く」(by町田樹氏)を思い出すようにしています。
ソチオリンピックの頃なので、もう5年以上この言葉には救われてますね。

その上で、「人それぞれの『休む』についてどうこう言ってくるような他人」がいまの辛さをどうにかしてくれる訳ではないと思うようにしています。
罪悪感が出たときはちょっとずつこれを意識すると、その気持ちを逃がして楽になれるような気がします。

私の「休めていると実感できる」方法は最近少し掴めてきた部分があるので、自分のメモも兼ねてまた書くつもりです。
【続いています】