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展覧会の感想、適応障害で休職中の日々の日誌など。気持ちの揺らぎを見つめて自分のハンドリング方法を模索しています。

桑久保徹展@小山登美夫ギャラリー

桑久保徹展「A Calendar for Painters Without Time Sense 1. 3. 4. 5. 7. 8」

1月末に体調を崩してしまい、色々とバタバタしているうちにすっかり機を逃してしまったのですが振り返りを。

行ってみたいと思ったきっかけはTwitterで見かけたこの1枚。

桑久保徹《フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホのスタジオ》、2015(※ギャラリーにて撮影)

ゴッホがとても好きで、とにかくこの作品は絶対に自分の目で見たいと思ったので、会期ギリギリだったのですが2回観に行けたので大満足です。でもまた機会があったら絶対もう1回観たい。

特定の画家の持っていたであろう世界観を、代表作を画中画として配置しながら1枚にまとめ上げている「カレンダーシリーズ」。 今回の6枚の展示作品のうち、フェルメールを題材にしたものは現在確認されている37点の作品全てを画中画として描き切っているとのこと。どの作品もとても密度が高い作品でした。

まずは作品探しが楽しい

先に挙げた《ゴッホのスタジオ》で作品探し。画面の右下辺りを切り取っただけでも多くの作品が描かれているので、ひとつひとつ観ていくだけでも楽しい。 ぱっと目を惹くのは《星月夜》《夜のカフェテラス》。

フィンセント・ファン・ゴッホ《星月夜》1889、ニューヨーク近代美術館

ゴッホ夜のカフェテラス》1888、クレラー・ミュラー美術館

切り取った部分の画面手前には、椅子を題材にした作品が2枚。左が《ゴーギャンの肘掛け椅子》、右が《ファン・ゴッホの椅子》。最終的に袂を別つことになった2人。腰掛けても向き合わない椅子。

ゴッホゴーギャンの肘掛け椅子》1888、ゴッホ美術館

ゴッホ《ファン・ゴッホの椅子》1888、ロンドンナショナルギャラリー

画面手前側は全体的に椅子や家具が並べられている空間となっているので、画中画が浮きすぎることなく馴染んでいるように見える。画家としてのゴッホの生活空間の中に入り込んだような感覚。

個人的にぐっときたのは、画面の最も右下部分に描かれた《糸杉と星の見える道》。

画面全体で見てもとても小さい部分で、角度もついてるので分かりにくいけど、ちゃんとわかる。この作品には細かな部分までゴッホの筆致が宿っているのだと、この部分を観て確信して、体が震えました。

ゴッホ《糸杉と星の見える道》1890、クレラー・ミュラー美術館

現代美術の印象と向き合う

この展覧会に行くにあたり色々とネット上で記事を読んだのですが、この記事のある部分が自分の中に刺さってきました。

一枚に凝縮された名画の数々!桑久保徹展@六本木(Numéro TOKYOより)

“絵を描く” という方法で現代美術に立ち向かうというコンセプトのもと、自分の中に架空の画家を見出すという演劇的アプローチで制作を開始した。

現代美術に立ち向かうとはどういうことなのか。 実際に桑久保さんの作品を観て感じたことをだーっと書いていきます。

現代美術というものについてはドラえもん展2017に行った時にも考えたのですが、現代美術は比較的攻撃的な印象を与えやすいという側面は確かにあるんですよね。 私自身も、現代美術は賛否両論を巻き起こすような作品が多く、一言で言えば「とっつきにくい」印象があって、なかなか飛び込めない。

私は、大学で芸術学を学んでから、現代において芸術作品と呼ばれるものは、他者の感情を揺さぶるものであり、既存の概念への問いかけや更新があるものであると思っています。 (定義することは野暮なんですけどね!)

なので、現代美術は難しい・怖い・グロテスクである・不謹慎であるという「流布している印象」は、現代における美術作品は「芸術というものが感情を快の方向に揺さぶるものである」という既存の概念を大幅に更新したものが多い上、予期せぬ不快な感情は印象に残りやすいからではないかなと。

もちろん「怖い絵展」があったように、古典芸術全てが快の方向に行くものではないですが、だいたい綺麗だろうなと予想していたものが急にグロテスクなものになったら、そりゃびっくりするし印象に残っちゃうよね。 印象が180°変わったら当然センセーショナルになる。

でも、だからって現代美術が全て不快になるものでなければならないというわけじゃないし、別に現代美術全てが不快になるものでもない。 現代美術は①不快寄りにも②価値観を大胆に更新してもいいということになっただけ。 その懐の広さが現代美術の魅力なのだと思います。

何を選んでどうするか

ここまで考えていて気づいたのは、現代美術の流れが、これから①②どちらも大胆に突き進んで行った時、快/不快問わず、価値観の更新が180°以下のものは、相対的に小さいものとして見落とされる可能性があるのではないか?ということ。

ここで桑久保さんの作品に立ち返ると、桑久保さんが選択しているものは題材・行為・画法・画材の全てにおいて古典的と言えます。

過去の画家へのオマージュという題材、絵を描くという行為、油絵という選択は②に当てはめてみると、現代美術にとってみればすごく小さくて、古臭いことになる。 現代美術はカンバス上である必要もないし、油絵なんて古臭いからもっと自由にあるべきだ!みたいなね。

また①の感情についても、桑久保さんの作品は快の方向です。綺麗、知的好奇心をくすぐられる、楽しい、面白いというそこまで目新しいものではありません。

ですが「カレンダーシリーズ」で、目新しい技法に頼らずとも、深くかつ俯瞰して1人の画家の作品の根底にあるものを感じ取る手段があるということを示すことが、桑久保さんによる「現代美術へ立ち向かう」ということなのだと私は思いました。

あなたも私も、何を選んでどうするか

現代美術の魅力は懐の広さであり、人間に暗い部分がある以上、社会には目を背けたくなるようなことはたくさんある。 現代美術はそれを気づかせる手段にもなり得るという役割は無視できないなと思います。

ただ、気づかせる時に、どこにどんな痛みがあるのか。誰にどう気づいて欲しいのか。 そして誰かを傷つけることに対しての自覚や覚悟があるかどうかとか、不必要に、過剰に誰かを傷つけていないかとか。

懐が広いからこそ、作者の意図や作品の意図をしっかり知った上で、私自身も色々な判断をしたいと思いましたね。 不快なものと向き合うときは特に、きちんと自分で考えて判断したい。 率先していけなくても、傷つけられた・不快になったからというだけですぐに嫌いになるのはなるべくなしでいこう、というスタンスでいこうと思います。

美術以外でも最近の「推し」文化だったりヘイトスピーチだったりと、現代は誰を/何を選んでいるのかということがすごく問われていると思うので、快も不快も発信しやすいからこそ、選ぶという行為には、どこか自分の中での線引きとか指針を持っていたいですね。

あとは今回は便宜上、様々な感情を快/不快でざくっと分けてしまったけど、もっと微妙な心の動きを的確に表現できるように語彙量を増やしたいと切実に思いました…。